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- 初夏には独特の匂いというものがある。
それは、梅雨明けの庭に漂う水蒸気の匂いだったり、吹く風の中に含まれる草いきれで
あったり、、太陽に焼かれたアスファルトの匂いであったりする。
忙しい毎日の中、一息ついたその時にふと感じることのできる、懐かしい匂い。
そんな匂いを感じることが多くなった。
そう、夏が、すぐそこまで来ていた。
「明日は七夕です」
昼休み、気だるい午後の中庭。二人することもなく、並んでベンチに座って、ただ空を
見ていた時、天野が突然呟いた。
「…そういえばそうだな」
校舎の上で風に流れる雲を、ぼぉーっと見上げたまま答える。口にくわえたストローか
ら、いちご牛乳をずずーっと吸うと、甘い味が口に広がった。
「この街の七夕祭りは、なかなか規模が大きいんですよ」
「そうらしいな」
「相沢さんは、お祭り好きそうですね」
横目で見れば、天野はまだ、この空を眺めていた。
「そうだな。どちらかと言えば、好きな方だな」
俺も視線を空に戻した。いちご牛乳を、ずずーっと飲み込む。雲はふわふわ流れている。
その一つに視線を合わせ、流れていく様を、ただ眺めながら同じ風を浴びた。
「明日は土曜日だし、賑わうんだろうな」
「そうでしょうね」
「金魚すくいに、射的なんかが俺は好きだな」
「りんご飴や綿菓子の方が外せませんよ」
「食いモンばっか」
「……」
天野は赤くなってるだろう。顔は見えないが、そんなことはすぐ分かった。
「楽しいだろうな」
「でしょうね」
いちご牛乳を、また一口吸い込んだ。そのまま、しばらくそうしていると、ずずーっと
大きな音がして、それで中身は空っぽになった。
目で追っていた雲が、校舎の陰に隠れてしまう。仕方なく、別の雲を眺め始める。
穏やかに時は流れる。あの雲からは、今の俺たちはどんな風に見えるのだろう。
「…天野、一緒に行ってみるか?」
こんなのんびりした時間を、一緒に過ごしたいと、そう思った。
「はい。よろこんで」
空を見上げたまま、約束を交わす。
「居酒屋みたいな返事だな」
「……」
ギャグも忘れない。しかし、真面目な天野には通じなかった。
しばらく、沈黙が続く。手持ち無沙汰になって、何となく、空の紙パックに息を入れた
り出したりして遊んでみる。息を思いっきり吸うと、ポコッ、と大きな音がした。
「めっ!」
怒られた。
ストローを口から離す。目で追いかけた雲が、また校舎に隠れた。
「天野は、はっぴが似合いそうだな」
思いつくまま言ってみたが、想像すると、本当に似合うかは疑問だった。
「…嘘でもいいですから、浴衣が似合いそうだと言ってください」
「じゃあ訂正。こう地味ーな浴衣が似合いそうだ」
「…ひどいですね」
「まぁ、冗談ということにしておく」
「すごく引っかかる言い方ですね」
いつもの他愛ないやり取りの最後は、予鈴のチャイムと重なった。ゆるやかに流れてい
た時が、慌しく動き始める。
「じゃあ、明日、駅前で待ち合わせるか」
ベンチから立ち上がり、紙パックを潰しながら、提案した。
「午後五時ぐらいが妥当でしょう」
天野も手早く身支度をしながら、そう答えた。
「よし、五時な。じゃあ、また明日、駅前で」
「それでは」
ぺこり、とお辞儀をして、天野は駆けて行った。その後ろ髪が、ふわふわと跳ねていた。
翌日、午後五時。
日の落ち始めた街並みは、普段と違う顔を見せていた。
親子連れに、カップル。大勢の人達が行き交う。喧騒が街に溢れていた。
その中でもひときわ目立つ、浴衣を来た女の子たち。
彼女たちが履いた下駄が、歩く度に、からん、からん、と音を鳴らす。心地よく響く、
そんな中、俺は駅前のベンチに座り、天野を待つ。
(しかし、遅いな、天野のやつ…)
女の身支度には時間がかかるというが、本当だったのか。
「相沢さん、お待たせ致しました」
待ち人に、不意に声を掛けられた。ぼぉーっしていて、目の前に天野がいるのに気付か
なかったようだ。落としていた視線に映る、黒塗りの下駄。赤い鼻緒。白い素足。
見上げる。
緋色に染め抜かれた浴衣。栗色の帯、手には小さな巾着袋を下げて。
天野がそこで、微笑んでいた。
「…お、おう」
返事がぎこちない。気が付けば、心臓が早鐘を打っていた。
「少し、遅くなってしまいました」
「いや、いいよ。俺も今来たところだ」
カビの生えたような台詞しか、もう出てこない。
「じゃあ、行こうか」
立ち上がりながら、そう伝える。早く自分のペースを掴まなくては…そんなことばかり
思う。
「あの…ぶしつけですけど」
言いにくそうに、天野が呟く。
「こういう場合は、感想を言って貰えると嬉しいのですが」
それが何を意味するか、ということは瞬時に理解できたが、そんな事がさらっと言えた
ら、苦労はなかった。
「…似合いませんか?」
「…いや、すごく…似合ってる」
頬が上気してるのが、自分でも分かる。
「安心しました」
そんな俺の返事でも、天野はうつむいて吐息交じりにそう言ってくれた。俺にもう少し
甲斐性があったら、可愛いとか綺麗だとか言えるんだが、今はこれが俺の精一杯だった。
「行こうか」
「…はい」
天野が俺の真横に並ぶ。一歩、踏み出すたびに響く下駄の音。
からん、からん。
誰が鳴らすそれより心地良く、街に響いた。
そして、二人で祭りを楽しんだ。
金魚すくい、射的。
結局、二人とも金魚をすくえなかったし、射的なんて遊んだ気もしないほどあっけなく
終わってしまった。でも、楽しかった時間があったことは、天野の左腕に抱えられ、ビ
ニールの棲み家の中でのんきに泳ぐ、おまけの金魚が証明していた。
綿菓子、りんご飴。
屋台のおっさんにさんざん冷やかされた俺たちだったが、それでも値引いて貰ったこと
は満足だった。久しぶりに食べた綿菓子。懐かしい味は、郷愁をふと誘った。
待ち合わせた時の緊張感は、徐々に薄れて、やがていつもの関係に戻る。
もとより、着る物が違うだけで、中身はいつもの天野なのだから、それは当然だった。
つかの間の恋人から、親しい友人へ。
楽しい時間はすぐに過ぎ去り、夜店は軒を畳み始める。もう、真っ暗だった。
「境内へ行きましょう」
もう帰ろうか、と俺が思った時、天野はそう言った。
「大きな竹に、願い事を書いた短冊を吊るすんです。はしゃぎすぎて遅くなってしまいま
したが、まだ間に合います」
天野の案内で、神社へ向かう。すれ違う人たち。祭りは終わりを迎えつつあった。
その中で、天野は、まだ終わらない何かを求めるように、人々の流れに逆らい、歩く。
二人、鳥居を潜る。
そして、月明かりの下。社の前に、立派な竹が見えた。枝に下げられた色とりどりの短
冊が、笹の葉と共に、夜風に静かに揺れていた。
おごそかな雰囲気に、息を呑む。辺りは静かで、もう俺たち以外の人はいなかった。
「さあ、願い事を」
巾着袋から、マジックペンと短冊を取り出して、天野は俺に手渡した。
「なんでこんなに用意がいいんだ?」
「淑女のたしなみですよ」
今ひとつ理解できなかったが、それを受け取る。
と。
いざ書く段になって、俺は気付いた。
――俺の今の願いって、何なんだ?
数ヶ月前なら、迷わず書けた答えが、書けなくなってしまっていた。
それは…そう。
多分、俺の横で、手の中の短冊を眺める、この少女のせいだった。
失った物が大きすぎて、心を閉ざした少女。それでも、懸命に、俺と真琴のために、塞
がりかけた傷を再び晒して。
そして、今、同じ立場に立った俺のために、こうして一緒に居てくれる。新しい道を歩
こうとしている、全てを拒絶してきた今までの自分に立ち向かおうとする、そんな今の天
野に、俺は何かできないか、そんなことを考えるようになっていた。
真琴を想いながら、天野を想う。
それは、許されることなのだろうか?
ふと、気付けば。
怪訝な表情を浮かべた天野が、俺の顔を覗き込んでいた。
「すごく真剣なんですね」
「いや、そうでもないが」
つい否定したが、思い詰めていたのは事実で、それはもう見透かされているらしい。俺
の返事に、嘘ですよね、なんて笑みを天野は浮かべていたから。
「悩むことはないと思います。相沢さんの、今の願いを正直に書けばいいんです。七夕様
は、きっと相沢さんの願いを叶えて下さいますから」
少女は、笑ってそう言った。夜の風になびく髪を、柔らかく手で押さえながら。
刹那、俺は願った。
だから、ペンのキャップを外して、短冊にペンを走らせた。浮かんだ願い、そのままに。
『みんな、幸せになれますように』
都合のいい願い。どうしようもなく身勝手で、我が侭で、でも大切な。
だから、これが一番いいと思った。
ペンを置く。隣を見れば、天野も書き終えたようだった。
「見ないで下さいね」
言いながら、俺から離れた所に、短冊を括りつける。
俺も見習って、枝に短冊を括る。なるべく、高い場所に。あの星空に近い方が、願いが
届きそうな、そんな気がして。
(俺たちの願い、叶うといいな)
満天の星空を見上げ、素直に、そう思った。
帰り道。
夜風がさらさらと吹き抜ける、そんな道すがら、俺は尋ねた。
「天野は、何をお願いしたんだ?」
「…秘密です」
「おばさんクサイ上に、けちクサイな、天野は」
「…願いが叶わなくなってもいいんですか、相沢さん?」
不機嫌そうな声で、意味深な台詞を言う天野。
「どういう意味だよ、それは」
「…それも秘密です」
わけがわからない、といった表情の俺を、天野は微笑んで見つめていた。
(私のお願い事は、来年までお預けです。だって、相沢さんがいるから、こんなに毎日が
楽しいんです。だから、今年のお願いは…)
風に揺れる短冊。美汐の書いた短冊は、くるりと願いを秘めた方を覗かせる。
『あの人のお願い事が、叶いますように』
(終)
(おまけ)
右手の人差し指に、軽い違和感があった。
見れば、指の腹に、赤い筋が一本走っていた。一センチにも満たない、浅い切り傷。痛
みはほとんどない。おそらく、さっき笹の葉で切ったんだろう。
「どうしました?」
自分の指先をまじまじと眺めている俺を不信に思ったのか、天野が尋ねてきた。
「ちょっと切ったみたいだな」
「それはいけません。…どうぞ」
さっと、天野がハンカチを差し出した。しかし、俺は差し出されたハンカチの出所に目
を奪われた。
(む、胸から出したよな、今…)
浴衣の合わせ目の奥。すぐ下の丸い膨らみに、視線が釘付けになる。
「どうぞ?」
「ああ」
言われて慌てて視線を外し、ハンカチを受け取る。
(…あったかいよ、おい)
ピンク色のハンカチには、暖かさが残っていた。
「…なんで、鼻に当ててるんですか?」
気が付くと、匂いを嗅いでいた。
「いや、じきにここからも出血する、なんせ破壊力が強力だからな」
「…変なこと、考えてませんか?」
「いや、ただ確かめてるだけだ」
「…何を?」
「言わなきゃ駄目、か?」
「ええ」
「…その、匂い、かな?」
「早く返して下さいっ!」
END
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